If I had six hours to chop down a tree, I’d spend the first four hours sharpening the axe.

~もし、木を切り倒すのに6時間与えられたら、私は最初の4時間を斧を研ぐのに費やすだろう~

如来所以興出世

如来所以興出世

唯説弥陀本願海

親鸞聖人・『正信偈』)

 

如来とは 

如来」とは仏のことで
ここでは、釈迦如来
お釈迦様のことを言われています。

お釈迦様は今から2600年前、
この地球上で仏の悟りを開かれた方です

仏教は、お釈迦様が
35歳で仏の悟りを仏の覚りをひらかれてから、
80歳でお亡くなりになられるまでの
45年間教えていかれた教えです。

そのお釈迦様の教えは今日、一切経
言われるものに全て書き残されています。

その数は七千余巻という膨大な数のお経です。

仏教に何が教えられているかを知るには
この一切経を余すところなく読んで
正しく理解しなければなりません。

ですが、難しい漢字ばかりのお経ですから
誰でも読めるものではありませんし、
理解できるものではありません。

この正信偈を書かれた親鸞聖人は、
七千巻余りある一切経を何回も
読み破られています。

そしてお釈迦様が教えていかれたことは
何かここでズバリおっしゃっておられます。

出世本懐とは

如来世に興出したもう所以は」とは
お釈迦様がこの世に現れた目的は、
ということです。

これを仏教で「出世本懐」と言います。

お釈迦様が生涯教えて行かれた教えは、
7000巻あまりの膨大な一切経
書き残されていますが
その中でお釈迦様は何を教え、
出世本懐となされたのでしょうか、
目的とされたのでしょうか。

仏教を知る上でこれ以上大事なことはありません。

唯説の断言

そのことは次に「唯説」とあります。

ただ、一つの事を説かれるためであったと
いうことです。 7000巻以上のお経があり、
45年間も教えられたと聞くと、お釈迦様は
いろいろなことを説かれたのだろうと
思われるかもしれませんが、
そうではなかったのです。

お釈迦様の教えていかれたことは
たった一つのことなのだと
親鸞聖人は断言されています。

こんな断言は一切経を99%、読んでも
できることではありません、
残りの1%に何が教えられているか
分からないからです。

親鸞聖人は一切経を何回も読み破られての
断言なのです。 だから私たちは
このたった一つのことを聞けば
仏教のすべてを聞いたことになり、

このたった一つの事を知れば、
仏教のすべてを知ったことになるのです。

弥陀の本願

ではそのただ一つの事とは何かと
言いますと「弥陀の本願」と仰っています。

弥陀の本願とは、阿弥陀如来という仏様が
本当に願っていられる御心のことです。

それは大変広く深いので、
海に例えて本願海と言われています。

では釈迦が、ただ一つ教えていかれた
弥陀の本願、すなわち阿弥陀如来の本願とは
何でしょうか。

阿弥陀仏とは

それを知るにはまず、阿弥陀如来とは、
どんな仏様か知らなければなりません

阿弥陀如来については、蓮如上人という方が

ここに弥陀如来と申すは、
三世十方の諸仏の本師本仏なり

 (蓮如上人・『御文章』

とはっきり教えられています。

蓮如上人とは、親鸞聖人のみ教えを
正確に日本中に広められた方です。

蓮如上人の書かれた御文章は
親鸞聖人のみ教えをわかりやすく
簡潔に表されています。

お釈迦様は地球上で、ただ一人仏の悟りを
開かれた方ですが、大宇宙には、
地球のようなものは数え切れないほどあります。

そのそれぞれに釈迦のような仏が
現れておられるとお経に説かれています。

それらの仏を三世十方の諸仏と言われます。

阿弥陀経というお経には、
ガンジス川の砂の数ほどたくさんの仏が
ましますとあります。

インドの向こう岸が見えないほど
大きな河がガンジス河です。

その川の砂の数ほどの仏ですから、
数え切れないほどたくさんの仏
ということがわかります。

大宇宙の仏の先生

次に、本師本仏とは、本師も本仏も、
先生という意味です。

つまり、阿弥陀如来は大宇宙の仏方の
先生なのです。

これはお釈迦様がおっしゃっていることで、
親鸞聖人も蓮如上人もその通りに
教えられているのです。

阿弥陀如来は十方諸仏の先生だということは、
大宇宙の仏方は皆、阿弥陀仏のお弟子と
いうことになります。

ですから、大宇宙のあらゆる仏方は、
阿弥陀如来のことを偉大な仏様だと仰り、
尊い仏様だ、我らの先生だと
褒め称えておられるのです。

お釈迦様も十方諸仏のお一人ですから
お釈迦様と阿弥陀仏との関係は
師匠と弟子の関係にあたります。

仏教で、弟子の使命といえば、先生の御心を、
正確に一人でも多くの人にお伝えすること以外に
ありません。

ですからお釈迦様は、自分の先生である
阿弥陀如来の本当に願っておられる御心、

阿弥陀仏の本願一つを説くことを
もって出世本懐とされたのは当然のことなのです。

ここからも、仏教とは阿弥陀如来の本願一つを
教えられたものとお分かりになると思います。

お釈迦様の教えを忠実に伝えられた親鸞聖人も
また90年のご生涯、阿弥陀仏の本願以外、
教えられたことはありませんでした。

本願とはお約束

次に本願とは誓願とも言われます。
分かりやすく言えば約束のことです。

ですから弥陀の本願とは、
阿弥陀如来のなされているお約束のことです。

それがどんなお約束であるのかを
お経の中には漢字36文字で説かれています。

それを現代の言葉でわかりやすく表すと
このようになります。

すべての人を

必ず助ける

絶対の幸福に

阿弥陀仏は死んだら助ける。 という
お約束をしているのではありません。

私たちを生きている時に
必ず助けてみせると、
お約束なされています。

しかも、その幸せは一時的な幸せではありません。
絶対の幸福というどんなことがあっても、
変わらない幸せに救って下されるのです。

阿弥陀仏は全ての人を、この世から
絶対の幸福に救い、死ぬと同時に、
阿弥陀仏の極楽浄土に往生させる。

この世も未来も救ってみせると、
お約束なさっておられます。

そんな阿弥陀仏の本願を、海に例えて
親鸞聖人は本願海とおっしゃっておられます。

この心について。 続けて話をしたいと思います。

なぜ海か?

この阿弥陀仏の本願を海に例えて
本願海と表されています。

なぜ海なのか。
その御心についてお話いたしましょう。

海には四つの特徴があります。

①広い
②深い
③一味
④終帰、の四つです。

①広い

初めの広いということから話をいたします。

阿弥陀仏の本願は分かりやすく言えば
お約束ということですが、
約束には必ず相手があります。

阿弥陀仏のお約束の相手は、
十方衆生とあります。

十方とは仏教で大宇宙のこと。
衆生とは生きとし生けるものすべてのことです。

阿弥陀仏は全ての人と約束しましょう、
とおっしゃっています。

老いた人も若い人も関係ありません。
善人だろうが悪人だろうが、
必ず助けると言われています。

この世で広いものは海以上のものはありませんが、
阿弥陀仏のお約束は一切の差別はなく、

すべての人を必ず助けるというお約束です。

相手を選ばないお約束ですから、
親鸞聖人は阿弥陀仏の本願を弘誓と
言われています。

弘誓とは、ひろいちかいということで。
すべての人を助けるお約束、ということです。

この正信偈の中だけでも
「弘誓」というお言葉が何度も使われています。

②深い

次に、地球上で最も深いものこれも海です

阿弥陀如来の御慈悲は限りなく深く、
どんな罪や悪の重いものも、
見捨てられないということを表しています。

阿弥陀仏は、どんなに罪が重いものでも
必ず助けるとお約束なさっているのです。

③一味

次に、一味と言われていますのは、
海は、どんな川の水も、やがて海に入れば、
塩辛い一つの味になるということです。

そのようにどんな人も、
阿弥陀仏の本願に救われたならば

皆、同じ幸せの世界に
生かされることができるのです。

全ての人が絶対の幸福という。
一味平等の変わらない幸せになることができます。

正信偈には、これを分かりやすく
このように教えられています

「凡聖逆謗斉廻入
 如衆水入海一味」

阿弥陀仏の本願に救われたならば、
あらゆる川の水が海に入れば、
塩辛い一つの味になるように。

世の中には才能があって
生まれてくる人もあれば、

なかなか才能が発揮できずに
苦しんでいる人もある。

健康な体で生まれてくる人もあれば、
生まれ持って身体に障害を持つ人もある。

地球上にはあらゆる人種の人もあれば、
色々な職業に就いている人もあります。

お金持ちの家に生まれた人もあれば
そうでない人もある。

世の中見渡せば色々な差別がありますが、
阿弥陀仏に救い取られた幸せな世界は、

どんな人も同じ心の世界に出ることができる

それはちょうどすべての川の水が
海に入って同じ味になるようなものだと
教えられているのです。

④終帰

最後の終帰と言われていますのは、
すべての水が最後行き着くところ、
それが海だということです。

どこに降った雨水でも、
最後は海まで運ばれていきます。

山の頂上に降った雨もやがて川に入り、
海へと向かいます。

途中、池とか湖にとどまることはあっても、
いつかそこを出て海にたどり着きます。

海に入るまではどんな雨水も落ち着かない。
それが終帰ということです。

私たちが求めているものは
「心の落ち着き」です。

家族と仲良く暮らしたいと思うのも、
落ち着きを求めてのことです。

健康を保ちながら過ごしたいのも、

世の中の人とぶつからずに
うまく付き合いたいのも、
みな「心の落ち着き」を求めてのことです。

しかし、これらが全て揃ったとしても
心からの安心はあるでしょうか?

忘れがちなことですが、
私たちが安心を求めて生きている日々は

そのまま死という最大の悲劇に向かって
進んでいる日々でもあります。

この問題とまともに向き合った時、
生きるためにあれほど心を砕いて
努力してきたことも、死を前にしたら
色あせてしまいます。

一体何を支えにすればいいのかと
どんな人でも迷う時が来るのでは
ないでしょうか。

そんな不安いっぱいの私たちです。

いつ死が来ても変わらない、
絶対の幸福になってこそ
本当に落ち着くことができるのです。

この絶対の幸福に必ず助けるという
お約束は阿弥陀仏の本願以外にはありません。

この阿弥陀仏の本願によらなければ
全ての人は心から安心したり
満足することができないのだよと

親鸞聖人は 全ての川が最後、落ち着く
海に例えて教えられているのです。

全ての人の 本当の幸せになれる道が
阿弥陀仏の本願であります。

聞く一つで、一瞬で救われる

この阿弥陀仏の本願を聞くひとつで、
私たちは絶対の幸福に
生きている今、救われるのです。

阿弥陀仏は、一念という
あっという間もない瞬間に救う
とおっしゃっています。

絶対の幸福になるのに時間はかかりません。
私はもうこんな歳だから救われない、
そんなことはありません。

私には、能力がないから助からない、
そんなこともありません。

阿弥陀仏は聞く一つで、一念の瞬間に、
絶対の幸福に助けるというお約束をなされています。

だからこそ、お釈迦様も親鸞聖人も蓮如上人も
聞けよ聞けよと 聴聞を勧められています。

この聴聞の一本道を
真剣に進ませていただきましょう。