If I had six hours to chop down a tree, I’d spend the first four hours sharpening the axe.

~もし、木を切り倒すのに6時間与えられたら、私は最初の4時間を斧を研ぐのに費やすだろう~

お釈迦さまの出世本懐(人生の目的)

●出世本懐とは?

お釈迦様の説かれたお経は
全部で七千余巻あると言われます。

その中で真実のお経と言われるのは何か
これをお釈迦様の出世の本懐経とも言われます。

出世本懐のお経というのは、
これ一つ説くために
お釈迦様はこの世に生まれてきた、
ということです。

本懐とは目的ということと、同じです。

お釈迦様がこの世に、
お生まれになられた目的のお経ということです。

そこには、真実の教えが説かれています。

教行信証の教の巻に親鸞聖人は

それ真実の教をあらわさば
すなわち大無量寿経これなり

親鸞聖人)『教行信証

と言われています

これはすごい断言です。

 

「真実の教」とは「出世の本懐経」のこと。

「釈迦がこの世に生まれ出たのは、
これ一つを説くためであった」という
経典のことですから、これは、

「釈迦出世の本懐経は、『大無量寿経』である」

と断定されているお言葉です。

 

その『大無量寿経』には
阿弥陀仏の本願」が説かれていますから、

正信偈』には

如来所以興出世 
唯説弥陀本願海 

と、全く同じことを
言われていることがお分かりでしょう。

 

では、この真実の経『大無量寿経』を

説かれるために、お釈迦さまは

どのようなご苦労をなされたのでしょうか。

 

●七つの代表的なお経

七千余巻の一切経の中でも、
代表的なお経が七つあります。

華厳経
阿含経
○方等経
般若経
法華経
○大無量寿経
○涅槃経

初めの『華厳経』は、お釈迦さまが
仏のさとりを開かれて最初のご説法であり、
その特徴は「難しい」お経であることです。

あまりにも難しく、誰も理解できないために、
聴衆は皆「如聾如唖(にょうろうにょあ)」
になった、と言われています。

「如聾如唖」とは、

「耳が聞こえず、
 しゃべれない人のようになった」、

ということです。

なぜ大衆がそんな状態になったのかというと、
お釈迦さまが"自内証"(じないしょう)
を語られたからです。

「自内証を語る」とは、自らさとられた
「仏覚」の境地を、そのまま説かれた、
ということです。

さとりには全部で五十二の位があり、
その最高無上のさとりが「仏覚」です。

さとりの位が一つ違うと、人間と虫けらほど
境界が違うと言われます。

例えば私たち人間がハエに、
携帯電話の使い方をこんこんと説明しても、
ハエにはとても理解できないでしょう。

生きている世界が、全く異なるからです。

いや、同じ人間同士でさえも、
なかなか説明してもわかってもらえない
ことがあります。

ましてや、お釈迦さまが得られた
「仏覚」は、凡夫とは五十二段も
かけ離れた境地です。

その、さとりの世界をそのまま説かれても
聞かせて頂いた人たちは、全く分からず
「如聾如唖になった」と言われるのも、
うなずけるでしょう。

しかしこれには、ちょっと考えると
納得できないところがあります。

「話」をする目的は、
相手に何かを分かってもらうことだからです。

知らせたいことがあって、
それを伝える手段として言葉を使い、
「話」をするのです。

話したのに何も分かってもらえなければ、
話したほうも聞くほうも、
時間と労力の無駄になってしまいます。

誰でもそう思うのに、お釈迦さまが、
そのようなことを考えておられない
はずがありません。

そのお釈迦さまがなぜ、誰も分からず
「如聾如唖」になるような難しい話を、
なされたのでしょうか。

それには、大切な理由があります。


●「聞いてやる」では、仏法は聞けない

それは、仏法を聞く受け心を
作られるためでした。

その時のことが、このように伝えられています。

お釈迦さまが、仏のさとりを開かれて、
初めての説法をなされようとしていた
時のことです。

その町では、バラモン教という宗教が
盛んでした。

そのバラモン教の長老であったのが、
ベーランシャという人です。

バラモン教では、年齢が多いものほど
尊敬されました。そのベーランシャは、
120歳であったと言われます。

そのベーランシャをはじめ、
バラモン教の信者たちが、お釈迦さまの
はじめての説法に足を運びました。

バラモン教の信者たちは、

バラモン教の盛んなこの街に、
 一人で乗り込んでくるとは
 よほどの怖いもの知らずか、
 自惚れたものか。

 無上のさとりを得たと言っているそうだが、
 おかしな話をしたらツッコミを入れて、
 大衆の前で恥をかかせてやろう」

そんな気持ちでいました。

ところが約束の時間になっても、
お釈迦さまがその会場に
現れませんでした。

次第に、会場がざわめきだします。

「遅いな。一体、どうした?」

会場の雰囲気を察知して、
ベーランシャが言った。

「きっと私が来ていることを知り、
 怖くて出てこれないのだろう」

 出てこれないなら、ワシのほうから
 行って励ましてやろうか」

 そう言ってベーランシャは立ち上がり、
お釈迦さまのおられる控室に向かいました。

その時、お釈迦さまは、部屋で静かに
座っておられました。

ベーランシャはお釈迦さまの前に立ち、
黙って見下ろしている。

しかし、お釈迦さまは目を閉じて
全く相手にされませんでした。

それを見たベーランシャは
不快に思い、お釈迦さまにこう言いました。

「釈迦とやら、そなたはなぜ、
 私に敬礼をしないのか」

するとお釈迦さまは、

「われは仏なり。いまだかつて
 仏に敬礼させた者は聞いたことがない。
 汝こそわれに敬礼せよ」

と言われたのです。

聞いていたベーランシャは驚きました。

この町にいる人は、
ベーランシャが姿を現すと、
一斉に頭を下げて、まともに見れば
目もつぶれると言われていました。

お釈迦さまの言葉に驚いた
ベーランシャは、続けてこう言いました。

「釈迦よ、そなたは仏かもしらんが、
 お前には敬老の精神はないのか。

 ワシは120歳、そなたはまだ35と聞く。
 そちらから敬礼すべきであろう」

しかし、それに対して、
お釈迦さまは更にこう言われました。

「人間の価値は年齢で決まるのではない。
 その人の備えた徳によって決まるのだ。

 われは仏なり。仏徳を備えたものである。
 汝こそ、われに敬礼をせよ」

それを聞いたベーランシャは思わず、
その場で平伏し、お釈迦さまに敬礼したのです。

それから、お釈迦さまは、ようやく
大衆の前姿を現されました。

その後ろに、ベーランシャが、敬礼を
しながらついてきたのです。

それを見て、大衆はびっくりしました。
ベーランシャのあとについて
お釈迦さま出て来るものと思っていたら

お釈迦さまの後をついて
ベーランシャが出てきたからです。

それをみたバラモン教の信者たちの
お釈迦さまに対する気持ちは
大変わりしました。

そこにいた誰もが、真剣にこの説法に
耳を傾けねば、と思いました。

そうして説かれたのが、華厳経
説法であったのです。

その時、聞きに来ていた者たちの心は、
「聞いてやろう」
「間違っていたらオレが正してやる」という、

自惚れ一杯であったのです。

そんな気持ちで、
とても聞ける仏法ではありません。

ちょうど、下を向いているお椀に
どれだけ水を注いでも、
一滴もたまらないのと同じです。

そこでまず、下向きの心の器を
上に向けて、法の水を
受け止められるように、

お釈迦さまはあえて、
このような難しい説法をなされたのです。

よく聞くことができたのは文殊菩薩普賢菩薩
お二人のみで、ほかに理解する者は誰もおらず、

皆「如聾如唖」になったと説かれています。

しかし分からないなりにも、何か尊い
深いことを説かれているに違いないことだけは
感じ取ったと言われます。

だから、ご説法中に眠りこけたり、
途中で座を離れたりする者もまた、
誰もいなかった、と言われます。

●『大無量寿経』を説かれるまで

華厳経』の次に説かれたのは
阿含経』です。

 内容は一言で「因果の道理」、

"蒔かぬタネは生えぬ。
蒔いたタネは必ず生える。
刈り取らねばならぬ
一切のものは自分の蒔いたものばかり"

という、誰でも理解できるお話でした。

学校教育にたとえて言えば、
「幼稚園」のようなものです。

"この前はえらく難しい話をされるなあと
 思っていたのに、今度は誰が聞いても
 分かる易しい話をなさる。

 お釈迦さまはなんとスケールの
 大きいえらい方だ"と、

大衆はますます仏法を
聞かずにおれなくなりました。

次の『方等経』は「小学校」に当たります。

小学校に入れるのは
「中学校」に進ませるため。

その中学に相当するのが『般若経』。

そして、有名な『法華経』は、
いわば「高校」の教育です。

ですが、ここで終わりではありません。
高校の次には「大学」があります。

その「大学」に当たる経典が、
阿弥陀仏の本願」を説かれた
『大無量寿経』なのです。

親鸞聖人は、この『大無量寿経』こそが
一真実の教であると、

それ真実の教を顕さば、
すなわち『大無量寿経』これなり 

と言い切られています。

最後に説かれた『涅槃経』には、

破邪顕正せざる者は仏弟子にあらず、
仏法中の仇なり 

と説かれています。

破邪顕正」とは、
"邪を破り、正を顕らかにする"こと。

ここで、明らかにすべき「正」とは
阿弥陀仏の本願」であり、

破るべき「邪」とは、
その「弥陀の本願」をねじ曲げるもの
一切をいいます。

すなわちお釈迦さまは、

阿弥陀仏の本願」を自他ともに
正しく徹底しなさいよと、
ご遺言なされているのです。

 

●方便と真実

一切経には他にもいろんなお経があります。

だから、今日でもどれが真実のお経なのか、
知らない人がたくさんあります。

その中、大無量寿経が、
お釈迦様が本当に説かれたかったお経です。

じゃあそれ以外のお経は何かというと、
「方便」のお経です。

つまり、大無量寿経に導かんが為の方便のお経です。

仏教で方便とは、我々を真実に近づけ、
真実を体得させるに絶対必要なものを言います。

方便とはサンスクリットの言葉で
ウパーヤと言います。

これは近づくという意味です。
あるいは近づけるための手段という意味です。

では、何に近づけるのかと言うと、
真実に近づけるための手段ということです。

まず目的があって、
目的に近づけるための手段がある。

方便は、私たちを真実に近づけるのに
絶対に必要な教え。

あってもいい、
なくてもいいというものでもない。

方便がなければ真実に近づけないし、
真実に入ることはできない。

方便からしか真実には入れません。
じゃあ私たちには一切経、全部必要か。

法華経の修行をする必要があるのか、
と言うと、そういう必要はありません。

今日で言えば、高いビルを建てるときに
どうしても足場を作る必要があります。

初めから高いビルを建てることができませんから、
足場を作ってビルを建てていきます。

目的はビルを建てることですが、
足場は絶対に必要なものです。

しかし、目的が達成されたならば
もう足場は必要ない

足場も大事だから残しておこう。
そんなことはありません。

出来てしまえば、目的が果たされてしまえば、
もう足場は全部取り外します。

法華経などの一切のお経は、
全て『観無量寿経』におさまる。

善のすすめは大事な教えですが
観無量寿経にすべておさまる。

 

●私たちに必要なお経

私たちが、今から山にこもって修行をする
必要はない。法華経を読む必要はありません。

私たちにとっては、
観無量寿経
阿弥陀経
そしてこの『大無量寿経

この3つを
浄土三部経と言いますが、
この教えが大切なことです。

無量寿経
出世本懐の経であることは、

お釈迦様ご自身が
無量寿経の中で仰っています。

無量寿経の上巻に

「私がこの世に生まれた目的は、
 まず聖道方便の仏教を説き開き、
 一切の人々を阿弥陀仏の真実の救いに
 導くためであったのだ」

とおっしゃっています

お釈迦様は、この世に生まれた目的を
ハッキリとご自分でおっしゃっています。

聖道仏教とは、法華教などの方便の仏教。
山にこもって修行したり、滝に打たれたり、
座禅を組んで悟りを開こうとする仏教です。

その一番大事なお経が法華経
これは方便の仏教です。

方便の仏教ですから、
真実に近づけるための教え ということです。

お釈迦様は、まず聖道仏教、方便の教えを
説かれたのですが、それは目的ではない。

苦しみ悩んでいるすべての人々を救うため、
真実の幸福に導いて、真実の幸福に救うために、
教えを説かれました。

●「真実の利」=阿弥陀仏の本願

お釈迦様は「真実の利」を明らかにするためだと
言われています。

この「真実の利」と言われているのが
阿弥陀仏の本願のことです。

お釈迦様がご自分でおっしゃっていることです。
私がこの世に現れたのは「真実の利」
阿弥陀仏の本願を教えるためにこの世に現れた。

お釈迦様の目的は、
阿弥陀仏の本願を説いて、
すべての人々を幸せにする。

これが大無量寿経に説かれていることです。

そのための方便として聖道仏教を教えられた。
華厳経とか、法華経というのは、
そのための教えなんだと言われています。

親鸞聖人は、お釈迦様だけでなく、
諸仏方も皆、この阿弥陀仏の本願一つを説くために
教えを説かれているとおっしゃっています。

そして大無量寿経の下巻には

 やがて法華経など一切の経典が
なくなる時が来ても、
この大無量寿経だけは永遠に残り、
全ての人を絶対の幸福に導くであろう

と、やがて来る未来のことを
お釈迦様はおっしゃっておられます。

聖道仏教の説かれているお経は
全部なくなると言われています。

お経そのものがもう滅してしまう。
なくなってしまうと言われています。

お経が全部なくなってしまったら、
もう助からないでないかと、叫びたくなります。

●「特留此経」=大無量寿経

その中、苦しみ悩む全ての人を哀れんで。
特にこの経を止めるとおっしゃっています。

無量寿経以外のお経は滅んでしまうけれども、
「この経」というのは大無量寿経のことです。

無量寿経だけは残るということです。

このお経だけは永遠に不滅である。
永遠に止めると言われています。

この阿弥陀仏の本願だけは、
永遠に人々を救い続ける
といわれています。

真実は滅びない。
滅するということはない。

どんなに時代が変わり世の中が変わっても
変わらない教え。滅びることはない。

永遠にすべての人々を救い続ける。

そこでこの大無量寿経を説き終わられた時に、
お釈迦様は大変満足をなされました。

●五徳瑞現・弥陀三昧

そしてお釈迦様が、この大無量寿経
説かれる前に、いつもと大変

ご様子が変わっておられた。

 

「五徳現瑞」とお経の中にあります。

身体全体が喜びに満ちておられた。
その姿が非常に清らかであった。
お顔が光り輝いておられた。

この時のお釈迦様のご様子が
今までにないお姿であった。

阿難尊者という、いつもお釈迦様のお側で
よく聞いておられ、よく覚えておられた方。

そのご様子に気が付いて、お釈迦様に尋ねた。

「お釈迦さま、今日はどうされましたか」

すると、「阿難、よく気が付いた。そなたの
智慧は素晴らしい」とお釈迦さまは仰られました。

それはいよいよ、我が本師本仏、阿弥陀仏の本願を
説く日なんだだから、私は非常に気持ちがいいと
仰られています

この時お釈迦様は「弥陀三昧」に
入っておられました。

阿弥陀仏の御心のままにお釈迦様が
説法をされる状態になられていた。

阿弥陀仏のお言葉がそのまま
お釈迦様のお口から発せられる。

たとえばある人に催眠術をかけられたとします。

催眠術をかける人がいて
催眠術にかかった人はかけた人の
いう通りに動く。

たとえば、あなたは犬だ、
ワンと言ったりします。

催眠術師の言うとおり
言ったりやったりするようになります。

この時はお釈迦様が、阿弥陀仏の催眠術に
かかっている。

だから阿弥陀仏の言われるとおり。
お釈迦様が仰るそういう状態に
なっておられた。

阿弥陀仏の御心の通りに、お釈迦様が説法をされる。
それでお釈迦様の状態が一段と輝いておられました。

人間でもとっても嬉しい時には、
何かいいことありましたかって
聞かれることがあります。

様子が違う。

お釈迦様も弥陀三昧に入られて、
いつもとご様子が違っておられた。

いよいよこれから私が本当に
説きたかったことを説く、

いよいよ本師本仏の阿弥陀仏の本願を説く。
この阿弥陀仏の本願が苦しみ、悩む
すべての人々を救ってくださいます。

この釈迦はこれ一つ説くために、
この世に生まれてきたのですよ。

いよいよ私の出世本懐を遂げる日だと
説かれています。

そして、説き終わられた後、非常に満足されて
これで仏としてなすべきことは、
すべてすることができた、と仰っています。

だから、 一切経の中で真実の教は、
無量寿経である。

出世本懐の経は大無量寿経だと
親鸞聖人は断言なされたのです。